MAYUKO INUI

#Exchange letters between Len Kusaka

第6の手紙

この文章は、小説や詩といった領域の分断に縛られない、二者のあいだにたつ文章表現をされている久坂蓮さんと2021年の8月からつづけている往復書簡です。久坂蓮さんからの手紙はこちらで読むことができます。

第6の手紙

お手紙をありがとうございました。蓮さんからお手紙をいただくと、読み終わったその瞬間から脳みそがぶわわぁぁぁっと活性化し、その瞬間を留めて言葉にしていかなければいけないのに、それを探しているうちに全てを忘れていってしまいます。言語以前のものを細胞が発しているのにも関わらず、それを言語に落とし込もうとした瞬間に消えてしまうような感覚です。
一方で、私は「言葉にできないもの」という言葉にいつも違和感を覚えます。私にその感覚がないのです。言葉にできないものなんてこの世にあるのでしょうか。もちろん、絵画や彫刻や、私がやっているパフォーマンスや映像などがそうなのではないかと主張する人もいると思います。ですが、あなたがおっしゃったように、私たちは「ただひとつの言語も完璧に習得できないまま一生をおえる」ような生き物です。そのような生き物である私が、簡単に言葉にできないものがあるとは言えないと思ってしまうのです。あるとき、喫茶店で友人にこのことを話しました。すると、「乾さんは素朴なまでに言葉を信頼しているからね」と言われ、あぁ、そうだなと思いました。私は言葉以上に信じられるものなどないと、ずっと、素朴に、そう思っているのです。

言葉に対する信頼が強いから、物語の中で描かれていることを本当のことのように捉えてしまうのかもしれません。もちろん、全ての物語に対して、ここに描かれているのは自分だと錯覚することはないですが、稀に強く共感したとき、そう思います。自分で脚本を作るときや、
何かを演じているときも、自他の境界線がおぼろげになることがよくあります。でも一番そうなりやすいのは、歌をうたっているときでしょうか。

私は普段、話している時間より歌をうたっている時間の方が⻑いような人間です。それくらい、歌は私の生活の一部であり、疑いようのないほど必要不可欠なものでした。そして歌をうたうとき、私は何よりもまず歌詞に集中します。歌詞に出てくる人はどんな人なのか、どういう環境にいて、そこで何を感じているのか、恋人を亡くしたのか、誰かに想いを伝えようとしているのか、暗い夜の中どこへ逃げようとしているのか……… 。歌をうたっていると、歌詞の中にいる人の気持ちが私に移ってきて、痛みや悲しみや喜びが私のうちから溢れてくるような感覚になります。こんなふうに書くと、思い込みが激し
いだけのように思えてきました(実際、本当にそうなだけかもしれません)。
でも、小説の文字を読んでいるときよりも、舞台で台詞を言っているときよりも、メロディーのついた歌詞を歌っているときの方が感情に近づくというのは、感覚として確かにあるのです。私は今、それがなんなのか自分なりに知ろうとしているところです。

さて、前のお手紙で、あなたに言われてハッとしたことがありました。それは、「ジェンダー平等とは、具体的にいかなる状態をさすのか、どの程度の《ジェンダー》をふくんでいるのか」という言葉でした。私はまず、軽率にジェンダーという言葉を使ったことを反省しました。なぜなら、ジェンダーという言葉にはやはり男/女という二元論のイメージが強くあり、それを説明もなしにあなたに投げかけてしまったからでした。もし少しでも不快な気持ちになっていらっしゃったら、ごめんなさい。

私は高校生くらいになるまで、自分は《女》であると思って生きてきました。というより、意識すらすることもなくずっと《女》でした。でも、生きていくうちに色んなことが重なって、自分が《女》であると信じて疑ってこなかったのはなんでなんだっけ?と考えるようになりました。ここ数年のことです。そう考えると、自分が《女》である理由は、全て外部から与えられた理由であることが分かってきました。
私は《女》として他者から分類されてはいるだろうけれども、私自身は私のことをどう思っているんだろう?とずっと考えていると、クィアという言葉に行き当たりました。私は今、この言葉が一番しっくりきています。クィアとは、「何か特定のものを指し示すとは限らない。それは本質なきアイデンティティである」と本で読*1んだとき、この言葉の持つ囚われなさに感動を覚えました。言葉は本来、意味を定義する働きをもつものなのに、言葉を与えることでその主体の定義を失わせる言葉
があるなんて!と衝撃を受けました。

*1河口和也『思考のフロンティアクイア・スタディーズ』岩波書店(2003 )p.63 1

こう考えると、私にとってジェンダー平等とは、全ての人が、外部から規定された、あるいは自分で選択した諸々に関係なく、その生を生きていく権利を受けるためのものといった感じでしょうか。久坂さんは、この世に《ジェンダー》はあると思いますか?久坂さんにとって《ジェンダー》はどういうイメージでしょうか?またまた大きな質問を投げかけてしまいすみません。

フィンランドへ来て初めて仲良くなった友人と、最近よく話します。その子は太陽のような人で、愛とケアがあり、英語が完璧ではない私に対してどんどん言葉を投げかけてくれます。その子に、あなたに投げかけたことと同じことを質問しました。「この世にジェンダーってあると思う?」と聞くと、「社会的にはあるんだろうけれど、自分にとってはずっとしっくりこない言葉だった」と言いました。一方で私は、「ずっと《女》であると思って生きてきたけど、最近はそれを解体していっているような感覚がある」と言いました。その作業は苦しい?と聞かれ、苦しくはない、むしろ心地良い、と答えました。
この世界にあるルールや定義は、そんな簡単に解体できないし軽くもならないと分かっているのですが、自分のなかでこの作業をやってみることで、世界の仕組みを掴もうと思っているのかもしれません。


十一月七日乾真裕子より