MAYUKO INUI

#Exchange letters between Len Kusaka

第8の手紙

この文章は、小説や詩といった領域の分断に縛られない、二者のあいだにたつ文章表現をされている久坂蓮さんと2021年の8月からつづけている往復書簡です。久坂蓮さんからの手紙はこちらで読むことができます。

第8の手紙

こんにちは。フィランドも、おそらく日本でも、寒い日が多くなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか?もうすぐ年末だと思うとびっくりしますね。私は過ぎ去った出来事をすぐ忘れてしまう人間なので、この一年という時間が早かったのか遅かったのか、いつもよく分からないまま年末を迎えます。そんなことを思いながら自分の日記兼創作ノートをパラパラと眺めていると、ある出来事を思い出したのでそのお話をしたいと思います。


自分のノートを見返していると、今年の六月五日に精神が不安定になっていたことが書かれていた。でも、なぜ不安定になっていたのか中々思い出せず、数秒間考えて、やっと詳細に思い出すことができた。

六月四日のお昼、私は銀座へ買い物に行くため、一人電車に乗っていた。席に座り、いつも通り本を開いていた。その本は、女性飛行家が書いた本だった。
その本を読んでいると、「女は、」という主語が頻繁に出てくることに気がついた。少し前の私だったら、この本に出会えたことに感謝していたと思う。勇気づけられていたとも思う。でも、その日、私は「女は、」という主語をあまりに多く見つづけたために段々としんどくなり、ついにはその本を読めなくなった。本を閉じ、疲れた頭で電車のドアの端をぼうっと見つめながら、もうこのままではいられないなと初めて思った。

私は、「女は、」という主語を見て初めて、これはどの女性のことを指すのだろう?と思った。女性にもさまざまな立場の人がいるけれど、この人はその中のどの女性のことを話しているのだろう?果たして、「女は、」という言葉でくくられる人々、その中に枠組みに入れる人というのは誰なのだろう?と思ったのだ。大袈裟だけれど、いつか来ると思っていた日が今日なんだなと思いながら目を瞑った。

その夜、私は人生で初めて金縛りにあった。最初に耳鳴りがして、耳から上の頭部が動かなくなった。
その時私は夢を見ていた。その夢は、白黑で、画質も荒かった。なぜだか分からないが、私はその情景が戦時中の日本のものだと分かっていた。四十代から七十代ほどの妙齢の《女》たちが、じゃがいもの皮を剥いていた。楽しそうではなかった。むしろ、貧しさと、不自由と不条理と、悲しさと怒りとやり切れなさでいっぱいのまま、でも、じゃがいもの皮を剥くしかないから彼女たちは黙々と手を動かしていた。

その顔のないたくさんの《女》たちが、私に向かって、「どこへも行くな」と言った。その無数の声は輪唱となり私の耳を覆い、やがて私の耳鳴りと溶けていった。

意識が少し戻り、私は金縛りにあっていることに気づいた。枕元のスマホを見ると三時だった。耳鳴りは次第に消え、私は寒くなった自分の身体を抱きしめ、落ち着こうと努めた。最初に枕元のあわい照明をつけ、起き上がった。もう一度眠ることはとても怖かったけど、そうでもしないと夜が明けないだろうと思ったのでもう一度寝た。もう夢は見なかった。


以上の文章は、自分のノートを見返したときにふと思い出して書いたものです。《女》として分類され、《女》について考えてきた私が、その分類に対して自分の中で考えなおしてみようと明確に意識した日に起きたことでした。

私は小学生の頃、「日本人も外国人も、男も女も、動物も植物も関係のない場所に行きたい」と親に言ったことがあるそうです。「関係のない場所」とは、そのような分類が無になる場所という意味合いです。私は今でもよくこの言葉を思い出します。私の制作は、この地平線へ向かうためのものなのかもしれないと思っています。

私にとって、世の中にある差別構造を教えてくれたのはフェミニズムでした。その構造に対して、自分の声で異議申し立てをしようと励ましてくれたのもフェミニズムでした。フェミニズムがなかったら、私は私の周りで起きているもやもやを、ただ自分個人だけの問題だと思いこんでいたと思います。私は社会につながっていて、私が感じるもやもやは私だけの問題ではなく、社会の構造なんだと気づくことでずいぶんと息がしやすくなったように思います。でも、だからこそ、フェミニズムを踏まえ、それを継承した上で、私は女性という二元論的な分類についてもう一度考えてみようと思ったのです。

現在、クィアという言葉に行き当たった私が「解体の作業」として取りかかる作品は、分類し規定されたものたちを外へ開いていくものになるのだと思います。現在私が滞在しているフィンランドで、NON HUMAN やMORE THAN HUMAN という単語をよく目にします。人間ではない何か、人間以上の何かとはなんでしょうか。私はまだ核心にたどり着けないのですが、人間/動物/植物などの種を超えた存在に、作品を通して触れたいと思っています。

そこで今気になっているのが、日本の⺠話に出てくる動物表象です。狐が人間に化けたり、人間の女性が本当は鶴だったりと、動物と人間のあいだを行き来する存在がたくさん出てきます。私はこれらの表象が、種を含むあらゆる分類を考えなおす手がかりになるのではないかと思っています。
あなたがマッチングアプリのことを平安時代の恋文に似ていると指摘されたり、「執筆を始めた動機のひとつに文体はじゆうに性別を越境できる」とおっしゃられたことをとても興味深く読んでいました。紀貫之の『土佐日記』を思い出したりしました。私は日本文学史に詳しくないけれど、仮名文字は女性、漢字は男性が使うものという文化があったのは本当に不思議ですよね。私はよく、なぜ今のような文化が構築されたのだろう?と漠然と考えることが多く、それゆえに日本の⺠話などの昔から脈々と語り継がれてきた物語を解体し読み解くことで、少しでもその源泉に近づくのではないかと思っています。

そして、人の心を明確に言葉で言い表すことはできないというあなたの意見に深く納得しました。それでも、相手に気持ちを伝えるためには言葉が必要という矛盾が生じてきます。あなたもおっしゃっていたように、言葉にすると取りこぼしてしまうけれども、それでも言葉で伝えようとすること、分かろうとすることが言葉の矛盾であり愛おしさでもあるのだと思いました。

この話とも通ずるのですが、私は、他者と本当にはつながることはできないとどこかではじめから諦めているところがあります。これはただ絶望しているのではなく、諦観に近い感覚です。
その記憶として思い出されるのは、中学生の頃、ある友人と電車に乗っていたときのことです。隣に座っていた友人が急にお腹が痛いと言いはじめ、それが相当に辛いらしく、座席の上で上体を折り曲げて痛みに耐えるほど苦しみ出したのです。そのとき私は、こんなに仲が良くて毎日飽きるほど一緒にいて、さっきまで共に大声で笑っていたはずの彼女の痛みが全くもって私に伝わってこないことがおかしくなり、隣で痛い痛いと苦しんでいる彼女を見て、ただただ笑っていました。痛いと苦しんでいる友人を見ながら笑って何もしなかった(できなかった)私は最悪だと思います。もちろん、後に彼女にめちゃくちゃ怒られました。でも、笑ってしまうくらい、彼女の痛みに対して私は何もできなかったのです。こんなに心が通じ合った私達なのに、痛みというものが全く共有できないものであるという圧倒的な事実に打ちのめされ、それに対して笑うことしかできませんでした(今でもよくこのことについて彼女から怒られます)。
もちろん、彼女のお腹の痛みを想像することはできます。胃がねじ曲がる感覚なのかなとか、食べ物に当たったときの痛みなのかなとか、針が内側から内臓を刺してる感じ?とか。でも私は、本当には彼女の痛みを共有することはできません。彼女の痛みを共有するには、彼女と同じお腹を持たなければいけません。彼女が指を針で刺したのなら、私も指を針で刺さなければいけません。
全く同じ環境、全く同じ痛みを味わわないと、他人に「共感」することはできないのだとあの時に思い知りました。これが、他者との断絶を感じた出来事のうちの一つでした。

このような意味において、私は他者を理解し、他者とつながることが不可能であると思っています。でも、だからこそ、分かろうとする姿勢だけは手放してはいけないと思っています。私が自分の身体をつかって作品を制作するのは、この不条理で不可解な世の中で、私の身体を通して、他者の痛みや喜びやその他さまざまな感情をできるだけ理解したい。というよりも、理解しようとする姿勢を手放さないためなのだと思います。

あなたは、「文筆はくるしみをうけとめてくれる、生きるうえでなくてはならないもの」だとおっしゃいましたよね。あなたは文筆を通してどのような世界を見ていらっしゃるのでしょう。文筆は、あなたにとってどういった意味を持つのでしょう。
そして、私もあなたがどのような記憶を持ち、それがどのように今のあなたへとつながっているのかお聞きしてもよいですか。もちろん、あなたがおっしゃってくれたように、言える範囲のもので構いません。


十二月一日乾真裕子より